幸せについてちょっとだけ本気出して考えてみた

今をときめく「静岡おでん」ですが、子どもの頃は特に何も思わず食べていました。当たり前のものとして。まあローカルフードとはそんなものなんですが、今となればあの黒はんぺんは珍しいものだったわけで、何も思わず食べていた、むしろあんまり好きじゃないな、おでんはやっぱりタマゴだよな、なんて思っていた自分をちょっと恨んだりもします。なに言ってんだ、これはなかなか食べられないんだぞ、と。

そんな感じで「幸せ」というのも近くにあっても気づかないものですよね。あるリーゼントの人は言いました、「なんでもないようなことが幸せだったと思う」と。でもなかなかそれには気づくことが出来ない。リアルタイムではわからない。あとからそれが幸せだったとわかる。

「今、自分は幸せなんだろうか」と疑問に思うときがあります。でも先に挙げたように、幸せなんてあとからわかるものなんじゃないでしょうか。「今、幸せなんだろうか」と思える時点で幸せだと思うんです。

逆にリアルタイムでわかる幸せもありますよね(こっちは幸福感とでも言うんだと思いますが)。例えば今、好きな作家の小説を読んでいます。読みながら思わず頬が緩みます。気持ちのいい展開で、本の内容的にも緩むし、「好きな作家の文章が読めて嬉しいな」という意味でも緩みます。

で、気づいたのが、好きな作家の文章を読むのと、好きなブロガーの文章を読むのは同じくらい幸せなんじゃないかって事。ブログを読むって事は日常的になっていて、これこそ幸せだって気づかずにいたのですが、本もブログも同じ「文章の集まり」な訳で、好きな人のブログを読めるのは、幸せなんだと思います。

余談ですが、僕が子どもの頃にはブログなんてなかった訳で、今の子どもたちは好きな人(こっちはLove的な意味)のブログを読むことが出来るかもしれないんですよね。昔の自分だったら発狂しそう。

本を読むのもブログを読むのも、音楽を聴くことだって幸せなわけで、実のところ身の回りには幸せが溢れているんだ、って思えばちょっとは楽しく生きられるんじゃないかなって思います。

反面、嫌なことから目を背けているだけなのかもしれないけれど、折角生きているのだから、楽しく生きたい。嫌なことがあることも、それに対処しなければならないことも肝に銘じつつ。『いいこと「49」 嫌なこと「51」の比率』なんだって思って。


そう考えれば、食べ終わったプリンの賞味期限が切れてたことにあとから気づいても、体に直接ファブリーズを吹きかけられても、「パッション」とか言いながらグーで叩かれても、幸せだって思えるから不思議ですね!